Share

第32話  夜に溶けていく影、断ち切る想い

Author: marimo
last update Last Updated: 2026-01-03 20:42:02

 真琴のお気に入り、「Bar Night Indigo(バー・ナイトインディゴ)」に入り、照明の落とされた空間に身を沈めると、

 楓は自然と背筋が伸びた。

 暗がりの中で光るボトルたち、ほんのり甘いアルコールの香り。

 ここだけが、現実から少し切り離された場所のように感じられる。

 真琴が注文した特別なカクテルが運ばれてきた。

 グラスの縁には深紅のローズの花弁が添えられ、まるで小さな舞台の主役のようだ。

「じゃあ楓、再出発に――乾杯!」

「乾杯」

 軽く触れ合ったグラスの音が、胸の奥で小さく反響する。

 その瞬間、張りつめていた何かがふっとほどけていった。

 ほろりと涙がにじみ、慌てて視線をそらす。

(大丈夫。私は、大丈夫……)

 口紅のついたグラスを静かに傾けると、

 冷たい液体が喉を滑り落ち、身体の奥で温度を変えながら広がっていく。

 そのとき――

 背中に視線が刺さるような気配がした。

 ふと振り向くと、奥の席にいたスーツ姿の男性二人が、

 こちらを興味深そうに見ていた。

 片方は切れ長の目をした落ち着いた雰囲気の男、

 もうひとりは笑顔の柔らかい、いかにも“人当たりのいい”タイプ。

「ね? 言ったでしょ。あんた、まだまだモテるって」

「……ナンパはしないでほしい」

「は? される側だよ!」

 真琴に肩を叩かれ、楓は思わず吹き出した。

 笑っている自分に驚きつつ、胸の奥がじんわり温かくなる。

 しばらくすると、先ほどのスーツ姿の男たちが近づいてきた。

「こんばんは。隣、いいですか?」

 落ち着いた目をした方が声をかけると、真琴がすかさずにっこり笑った。

「いいですよ、ただし――紳士的であることが条件ね」

 笑顔の柔らかい男が、わざとらしく胸に手を当てた。

「もちろん。僕たち、見ての通り紳士です」

「紳士は自分で言わないのよ」

 楓が淡々とツッコむと、二人とも吹き出した。

 4人でカウンターに並び、新しいグラスが置かれた。

「今日はお二人で飲みに? すごく綺麗だったから、つい声かけたくて」

「ありがとう。でも……」

 楓は軽く指を振った。

「2杯だけよ。それ以上は飲まないから」

 その言い方は、妙に自分でも驚くほど、大人の余裕を含んでいた。

「じゃあ、その2杯を大切にさせてもらいます」

 切れ長の目の男がそう言い、軽くグラスを上げる。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第38話 

     楓と冬真の距離は近く、  凛夜と真琴もわざとらしいほど親密にしている。 その雰囲気は、周囲の席にも自然と伝わっていた。 対照的に、亮と亜里沙の席には微妙な空気が流れ始めていた。 亜里沙が亮の腕に絡みつき、声を弾ませる。「ねぇ亮、今日の担当くん、どんな子かしら?」「さあな。まあ、適当でいいだろ」 亮は気だるげに返事をしながら、ちらりと店内を見回す――楓たちの方へ。 その瞬間、亮の顔が固まる。「……は?」 亜里沙も亮の視線を追い、自分も凍りついた。「え……って、え!? なんであの女がここに……?」 亮は思わず立ち上がりかけ、スタッフが慌てて止めに入る。「お、お客様、席でお願いします!」 亜里沙が亮の腕を掴む。「ちょっと亮、落ち着きなさい!」 しかし亮の視線は、冬真の腕に包まれて笑っている楓から離れなかった。「……誰だ、あいつ」 亜里沙が焦ったように笑う。「ただのホストでしょ? あの女が誰と飲んでたっていいじゃない」「……」「亮には、私がいるでしょ?」 亮は返事をしなかった。 その顔には、怒りとも嫉妬ともつかない影が浮かんでいた。 一方、楓は亮の視線を完全に無視し、冬真と静かに言葉を交わしていた。「冬真くん、演技……上手いのね」「ほんとに思ってるからだよ」「からかわないで」「からかってない。本気で言ってる」 冬真の瞳は、作り物の軽さよりも、どこか真剣な色を帯びていた。 心のどこかで少しだけ救われる。 そのとき、真琴がわざとらしく大声で凛夜に言った。「楓、前より綺麗じゃない? 失恋で磨かれた? やだ〜!」「うるさい……!」 楓は苦笑しながら言い返したが、  その声さえも、亮の方に届くよう真琴が計算して言っていた。「ね、楓。こういうのは“見せつける”のが一番効くのよ」 その言葉に、冬真が楓の顎を軽く指で持ち上げた。「楓さん。本当に綺麗だよ。誰が見てなくても」「……っ」 その仕草は自然で、  そしてどこか亮の心に火をつけるような一打になっていた。

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第37話 最悪な再会

     凛夜と真琴の笑い声、冬真の落ち着いた声、グラスの触れ合う音。  楓のいるテーブルは、店の喧騒の中でもほどよく落ち着いた空気に包まれていた。 冬真が楓のグラスに軽くシャンパンを足しながら、柔らかく言う。「緊張、ほぐれた?」「ええ……だいぶ。ありがとう」 楓が微笑み返そうとした、その瞬間だった。「――新規二名、ご案内しまーす!」 スタッフの声が店内に響き、  店の入り口方向から二つの影がこちらへ歩いてくる。 楓は何気なく視線をそちらへ向けた。 そして――呼吸が止まった。(嘘……でしょ……) 明るいライトの下、案内されてくる男女。 男は黒のジャケットを羽織り、  女は白のミニワンピで男の腕にしなだれかかっている。 その二人が、向かいのソファ席へ座る。 ――亮と亜里沙。「……っ」 楓は指先まで一気に血の気が引くのを感じた。  隣に座っていた真琴も気づき、息を呑んだ。 凛夜と冬真も、楓たちの視線を追い、向かいの席に視線を止めた。「……あれ、もしかして」 冬真が低く呟く。 亮と亜里沙は、楓たちの存在にまだ気づいていない。  だが、離れていてもすぐ前の席だ。時間の問題だった。 場の空気が一瞬だけ張りつめ、楓はうつむきかけた。 そのとき、冬真が楓の耳に口を寄せて言う。「――楓さん、アイツ……女が変わったんですね」「え……っ?」 耳元への囁きは優しいのに、その内容は鋭くて、楓は思わず冬真を見上げた。 冬真は楓のグラスにシャンパンを注ぎ足しながら、  片目を閉じてウィンクする。「僕、前から楓さんのこと、いいなって思ってたんですよ」「……!」 思わぬ言葉に目を丸くする楓。  しかし、横から真琴がすぐに腕をつかんだ。「楓、ここで動揺したらダメよ」 真琴は声を低めて続ける。「“あんたなんてもういらない”って態度、貫くの。……ね? 楓先生」 ――楓先生。 その言葉で、楓の背筋は自然と伸びた。  医者としての顔、毅然とした姿勢。  それが心の支えになる。「……わかった」 楓は深く息を吸い、  亮の姿が視界に入らない角度へそっと顔の向きを変えた。 冬真の方を向き、穏やかに微笑む。「冬真くん、さっきの……どういう意味?」 冬真もその空気を読み、身を寄せるように楓へ向き直った。「言った通りだよ。前回来

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第36話 煌めく夜

     冬真が楓のグラスに少しだけお酒を注ぎながら、  優しく言った。「お酒、強くなさそうだからね。控えめにしておく」「ありがとうございます……なんか、すみません」「謝ることじゃないよ。今日は楽しく飲むために来たんでしょ?」 その声は、落ち着いていて、どこか温かかった。(……亮と同じ年くらいかな) そんなことを考えて、  すぐに自分の思考を否定する。(今夜は亮のこと、考えない。もう終わったんだから) 凛夜と真琴のトークはさらに盛り上がっていた。「えー、真琴さんって広告代理店なの? 絶対モテるでしょ」「うん、モテる。けど、付き合うとダメ男製造機って呼ばれる」「それ自分で言っちゃう?」 真琴のぶっちゃけに、凛夜は声を上げて笑い、  その笑い声につられて周囲の女性客もちらりとこちらを見る。 楓は冬真に聞かれた。「楓さんは……何のお仕事?」 一瞬迷ったが、ゆっくり答えた。「医者です。今は内科なんだけど……もともとは外科にいの」「へぇ……すごいね」 その瞳に、軽い好奇心と尊敬が光る。  作り物の褒め言葉じゃない、自然な反応。「外科医って、命預かるでしょ? 精神的にも大変そう」「……うん。でも、また外科医に戻ろうと思ってて」「戻るの?」「ブランクがあるんだけど……ね」 冬真はわずかに微笑み、グラスを楓に軽く近づけた。「じゃあ、その決意に――乾杯」「……乾杯」 静かに触れ合うグラスの音が、胸の奥を震わせた。 店内では相変わらず女性たちの笑い声が響いている。  だけど、楓と真琴の席だけは、不思議な“落ち着き”があった。「ねぇ真琴さん、恋してるときの方が綺麗だけど……  恋を終わらせた後の女の人も、なんかすごく色っぽいんだよね」 凛夜が真琴の耳元で囁くと、真琴の肩がビクリと動き、「……ちょっと、いやその……」 照れた真琴が楓の方を見る。「楓、こいつ好きかも」「早いわよ」 二人で笑い合うと、冬真がそれを眺めながら微笑んだ。「いい友達だね。今日来たの……正解ですよ、楓さん」 楓はその言葉に、静かに笑った。「うん…真琴に癒されてるわ」 本心だった。 夜が深まるにつれ、  楓の胸の奥で凍っていた何かが、少しずつ溶けていく。 亮の裏切りに刻まれた傷は消えていない。  でも、その傷を抱えたままでも歩ける。

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第35話 煌めく夜の入り口

     扉が開いた瞬間、空気そのものが変わった。 ホストクラブの店内は、想像以上に華やかで眩しかった。  壁もテーブルもライトも、すべてが非日常の光をまとっている。  音楽は軽快で、グラスの触れ合う音があちこちで響いていた。 そして何より――女性客の熱気。 ソファ席はほぼ満席で、華やかな女性たちが笑い声を上げながら  ホストたちに身を寄せている。  若い男の子が、何十人も行ったり来たりし、名刺を渡しては別の席に走っていく。「すご……こんなにいるの?」 真琴が目を丸くする。「こんなに賑やかだったっけ……?」 楓も圧倒されていたが、同時に胸が少しだけ弾んでいた。  この雰囲気は、亮と行った時とはまるで違う。  あの時は“同伴客としての楓”だった。  今夜は――“ただの女”としてここにいる。 二人は顔を見合わせ、  無言で「大人の女モードね」と確認しあい、  堂々とした表情でスタッフに案内された席に腰を下ろした。 ソファに座って間もなく、  二人の若いホストが慌てて駆け寄ってきた。「い、いらっしゃいませ! お客様、初めてのご来店ですか?」 ぎこちない笑顔の青年が、震え気味の手でグラスを準備していく。  もう一人はおしぼりを丁寧に差し出し、すっと膝をついた。「僕、優斗(ゆうと)と申します。よろしくお願いいたします」 名刺が差し出されると、真琴が「おお……」と小声で感心している。 酒を注ぎ終えた青年も、やや緊張しながら名刺を差し出した。「僕は……隼(じゅん)です。お見知りおきを」 若々しい照れの残る笑顔に、真琴が思わず吹き出す。「かわいいじゃん」「しっ、真琴……!」 楓が小声でツッコむが、遥斗と隼は嬉しそうに頬を赤らめた。 軽い自己紹介の後、店のシステムや料金説明が始まった。  二人は覚えた通りを一生懸命話していたが――。「ではそろそろ僕たちの持ち時間終了なので、失礼します!」 遥斗がグラスを持って立ち上がり、隼も同じように下がっていった。「お姉さんたち、また来てくださいね〜!」 手を振りながら去っていく姿に、楓と真琴は顔を見合わせて笑った。「なんか……かわいいね」「うん、初々しい」 しかしそのあと、入れ替わり立ち代わり、また別の若いホストが来る、来る、来る。「楓、名刺……もう何枚目?」「えっと…

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第34話

     真琴がふと楓の腕を握り直し、少し真顔になった。「ねぇ楓。こういうとこで変な男に捕まるのはマジで危ないから。  どうせなら店の男の子たちにチヤホヤされる方が、全然安全。  お金で守られてる方が、逆に気楽よ」「……それはちょっとわかる」 亮と来たあの店は、政治家の会食にも使われる上品な店だった。  若いホストたちは、亮の同伴というだけで距離を置き、  楓に近づくことはほとんどなかった。 だから、楓にとって“ホストの世界”は未知数だ。 でも――  今日は、自分を取り戻す夜。(亮を思い出す場所じゃなくて……自分のための場所がいい) 楓は心の中でそう呟き、深呼吸した。「真琴、亮と行った店……あるんだけど、そこは行きたくない」「あー、それはやめとこ。偶然なんてあるもんね」「うん……だから、たった二回だけ行った別の店があるの。  亮とは会わないはず。客層も違うから」「じゃあそこにしよ! 楓の“新しい夜デビュー”のお店ね!」「新しい夜デビュー……?」「いいじゃん響き! ほら、行くよ!」 二人は繁華街を抜け、少し落ち着いた裏通りへ入っていく。  照明が少し暗くなり、代わりに店のネオンが一つ一つ際立って見える。 前方に見慣れた看板が見えた。 ――CLUB Argo。 ギリシャ神話にちなんだ名前を冠した、シックで大人向けのホストクラブ。  楓が亮と来た店とは別の系列店で、より落ち着いた雰囲気の店だ。「ここ。入る?」「入る!!」 真琴の声が弾む。  その明るさに引きずられて、楓の緊張が少しずつほぐれていく。(……もう、亮の面影に怯えない) そう思えた自分に、楓は気づかないうちに微笑んでいた。 黒のスリップドレスに赤いハイヒール。  真琴は青いドレスにゴールドのヒール。 二人は夜風をまとって歩き、  ゆっくりと扉へと近づいていく。 店の前に立つスタッフが、二人を見てわずかに目を見張った。「いらっしゃいませ……お客様方、今夜は特別な夜になりそうですね」 その言葉に、真琴がくすっと笑う。「特別な夜っていうの、約束できる?」 スタッフはプロらしい笑顔で答えた。「もちろんです。おふたりのご希望に叶うよう、最高の夜をご用意します」 楓はドアノブに指を添えた。  胸の奥で、かすかな鼓動が高鳴る。(これは……亮を忘

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第33話  夜を歩く二人、あの日からの距離

     バーで出会った「自称紳士」の二人は、驚くほど本当に“紳士”だった。「今日は話せて嬉しかったです。もし覚えていてくださったら……連絡をください」 そう言って、名刺をテーブルに置くと、  二人は余計な引き止めも期待も見せず、軽く頭を下げて去っていった。 夜の照明の中で揺れる名刺。  そのさりげなさが、楓を少しだけ安心させた。「……ほんとに二杯だけだったわね」「でしょ? ああいうのが紳士って言うのよ。あたしは嫌いじゃないわ、ああいうタイプ。付き合うならああいうタイプね。遊ぶにはちょっと物足りないけど」 真琴はまだエネルギーに満ちていて、口紅を塗り直しながらウキウキした表情を浮かべていた。 一方の楓は、グラス一杯半でほろ酔いだった。  頭の内側がほんのり温かく、心も少し軽くなっている。(こんな感覚……久しぶりだ) 二週間前まで、涙でぐしゃぐしゃになり、心の形が分からなくなるほど苦しかった。  でも今は――ほんの少し、生き返っている。 そんなときだった。「楓、次どこ行く? まっすぐ帰るテンションじゃないでしょ?」 真琴に言われ、楓はふと口をついて出てしまった。「ねぇ……真琴、ホストクラブって行ったことある?」 言ってから、楓は自分の言葉に、胸が小さく跳ねるのを感じた。  亮に連れられて行ったあの夜の、微妙な気まずさと虚しさを思い出す。  男女同伴での接待で、ホストたちは必要以上に話しかけてこなかった。  ただ、店のきらびやかさだけが目に焼きついている。(でも……今日の真琴のテンションなら楽しめるかも) 真琴は一瞬まばたきをした後、満面の笑みで食いついた。「マジ!? あたし行ったことないの! 楓は経験者?」「……亮が、接待で行ったとかで、何回か……」 その言葉を聞いた瞬間、真琴の目がギラッと輝いた。「行こう! 行こう!! 絶対楽しいよ!」「え、でも……」「よし決まり! 行くわよ楓!」 真琴は楓の腕を掴み、繁華街の通りへと歩き出す。  赤と青のネオンが足元に反射し、二人のドレスが揺れるたびに光を受けて輝いた。 通りの両脇にはキャッチの男たちがずらりと並び、通りすがりの男女をあの手この手で誘っている。「お姉さんお姉さん! 今なら初回90分3000円ですよ!」「綺麗ですね〜! 絶対後悔させませんから!」「飲み放

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status